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串カツ物語

POSTED : 2015.6.16

ページ 4

 

男の名前は、伊井家 辰夫。一級建築士として、設計事務所を経営している。

大阪の南のベットタウンであるこの界隈に引っ越して、もうすぐ5年になる。とはいっても、最初の2年間は福岡で単身赴任していたため、辰夫自身がこの界隈に住むのは3年目である。

引っ越してきた時から、串カツ「串美」そして、いつも外に黒板にチョークで手書きが書かれている1000円のセットの存在は知っていたが、駅から自宅への帰り道の途中にあり、あと5分で自宅に着くという曲がり角にある、この串美に自分が一人で来ることになるとは思っていなかった。

ただし、実は辰夫は串美に入ったことはなかったものの、いつも気になっていた。

福岡での単身赴任から帰ってくる時も、サラリーマン時代にたまに仕事が早く終わって早く帰ってきた時も、仕事が忙しくて終電で帰ってきた時も、土日に家族で電車で出かけた帰り道も、収入がない中必死になって働いていた時も、妻と子供たちに早く会いたくて、急ぎ足で歩いている時も、妻が口をきいてくれなくなった時も、いつも串美は、同じようにのれんを出して、セット1000円の手書きの看板をだして、そして、同じように灯りをともしていた。

たまに、客の笑い声が外まで聞こえてくる時もあった。客がいないときは、いつも主人が、入り口のとなりのテーブルに座って、居眠りをしていた。3年前、辰夫が設計事務所を立ち上げたばかりのときは、そんな串美から勇気をもらっていた。あの時は、「この店は、客がいようといまいと、いつも必ず開いている。俺もがんばろう」そんな風に思っていたものである。

そして、今日、世界で一番愛していた家族が、辰夫一人を置いて金沢に引っ越してしまった。子供たちは新しい中学校になじめるだろうか?これからどうやって生きていくのだろうか?辰夫はとてもからっぽの家に一人で帰る気になどなれず、初めて串美ののれんをくぐった。

「すると、ある日、家に帰ると、机の上に置いてあったんです」

「妻のハンコをついた、離婚届が・・・・。」

気が付けば、辰夫は、串美の主人に身の上話をしていた。

 

「お客さん、今日はゆっくりしていきなよ。俺も付き合うよ」

串美の主人は、

「これは俺からのサービスだ。」

といって生ビールを一杯注いで辰夫に渡し、自分用に焼酎のお湯割りを作った。

「実は俺も40年くらい前に離婚してん。まあ、俺の場合は、女遊びがひどすぎたから仕方がないけどな。まあ、生きてたらいろいろあるよ。お客さんもさっさと昔のことは忘れて、さっさと新しい子見つけんさいや」

全く気の利かないセリフだったが、辰夫はなぜか気がらくになり、少しクスっとした。

「大将はその後再婚されたんですか?」

「いや、その後ずっと一緒に暮らしてた人がいたが、5年前に亡くなってもうた。」

「そうでしたか、すいません。」

辰夫はまた少し気持ちが暗くなって下を向いた。

「ええねん。ええねん。その人と知り合ってからこの店を開いてん。だからうちの常連さんはみんな親しくしてくれててん。彼女はいなくても、俺にはお客さんがいてくれるやさかいな。寂しくなんかあらへんで。」

辰夫は思った。自分がつらい時に、串美はいつも開いて勇気をくれていた。この5年くらいの間ずっと変わらずに串美は開いていた。串美がこれまで何年やっているのか知らないが、串美の客は、年を経て、変わってきただろう。でも串美は、どの客にとっても、変らなかったはずだ。転勤などで、この地を離れて、その後何年か振りに、出張かなにかでこの地を再び訪れ、そして串美を訪れた客は、変わらない串美でほっとして帰っていくのだろう。

辰夫は思った。「変わるもの」と「変わらないもの」。串美は変わらない。だから、人々はこの串美を訪れる。串美の主人の恋人はなくなったが、思い出は変わらない。串美の主人だけでなく、串美の客も変わらない思い出を持っている。それが、串美の主人の支えにもなっている。

辰夫は思った。「『まあ、生きてたらいろいろあるよ』か。確かに生きるってことは、変わっていくってことだよな。変わっていくから、変わらないものも大切なんだ。」別に大したことを発見したわけではない。でも、辰夫は、なぜか、こんな風に思った。「さあ、生きていこうかな」

すると、新しい客が来た。「おお、まいど。ひさしぶりじゃないかい。」串美の主人が言う。

客は辰夫と同じくらいの年の男性だ。

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